マレーシアの現地スタッフがお送りする、マレーシア通信#6
日本とマレーシアは、歴史上、さまざまな点で交差しています。
歴史の背景には、政治、経済など多くの目的や思惑があったはずですが、それらを動かすのは、やはり「人」。
さて、日本にキリスト教をもたらした聖人フランシスコ・ザビエルは、なぜ東の果ての島国、
日本を布教の地として選んだのでしょう。
1500年代中頃、ポルトガル国の要請によりインドを経てマラッカで布教していたザビエルは、1人の日本人青年、弥次郎(ヤジロウ、アンジロウとも言われる)と出会います。
当時のマレーシアは、1511年にマラッカ王国がポルトガルとの戦いに敗れたことにより、ポルトガルによる植民地支配が始まっていました。
薩摩(鹿児島県)出身の弥次郎については諸説あり、貿易を目的としてマラッカを訪れていたとも、罪を犯して貿易船でマラッカへ逃れていたとも言われています。
この弥次郎青年と出会ったザビエルは、その礼儀正しさ、勤勉さに驚き、
「日本という国を見てみたい」
との意を強くします。
また、日本でキリスト教が受け入れられるかを弥次郎に尋ねた際、弥次郎は「可」と答えたこともあり、ザビエルは弥次郎とともに日本を訪れることを決心します。
弥次郎がマラッカを訪れていなければザビエルは日本を訪れることはなく、キリスト教は日本に伝来しなかったかもしれません。
ザビエルが日本を訪れることがなければ、その後に天下を狙う織田信長を始めとする戦国大名らの勢力や、戦国構図自体も変わっていたことでしょう。
弥次郎という人物が、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたことは言うまでもありません。
日本の歴史に大きなうねりを与えた弥次郎青年とザビエルが出会った地、マラッカ。
当時、マラッカにおいてザビエルが布教の拠点とし、また弥次郎と出会ったのは、マラッカ王国を360度一望できる丘の上に立つセントポール教会でした。
セントポール教会はその後のオランダとの戦いを受け、今は当時の外壁を残すのみ。
しかし、志半ばで熱病により殉教したザビエルの遺体は、この教会に9か月間安置されていたこともあり、神聖な場所として、今も世界中の人々を惹きつけてやみません。
またここは、マラッカ王国の王宮のあった場所であり、マレーシア屈指のパワースポットでもあります(このお話は、また後日)。
この丘は、私たち日本人にとっても、日本とマレーシアの結びつきに思いを馳せることのできる意義深い地です。
ザビエルや弥次郎が見ていた景色が今も残るマラッカに、一度、足を延ばしてみてはいかがでしょう。